平群天神社のお祭りは、祭神の神輿を渡御の礼により本殿から御旅所の御仮屋(平久里下)に移し、氏子等が献灯の屋台を運び入れ、奉納花火を打上げ、祭神をお慰めする行事です。これは今日までも引き継がれており、例祭は毎年10月24日に行われていましたが、平成13年(2001)からは前の土曜日に変更しています。
由緒は、祭神菅原道真が右大臣の官位を解かれ九州太宰府に配流となり、窮迫と病のため延菩3年(903)に死去します。その後40年を経た天慶5年(942)、右京七条二坊(現在の京都市下京区千本通り七条辺り)に住む巫女多治比文子(たじひのあやこ)に、菅公の心霊より「わが魂を右近馬場(現在の北野天満宮境内)に祭れ」とのお告げがあり、文子はとりあえず自宅に菅公の御霊をお祭りしたのが北野天満宮の発祥です。その「北野天満宮」を、文和2年(1353・菅原道真死去450年後)細川相模守清氏(ほそかわさがみのかみきようじ)が、平群の地に勧請した天神社のお祭りです。
神輿渡御は、各地区から選ばれた氏子が白丁(はくちょう)という白装束に烏帽子という衣装で行われ、神輿は天神社を3回まわってから鳥居をくぐり御仮屋に向かいます。御仮屋がいつ造営されたかは不明ですが、祭礼の初めは氏子の村長(むらおさ)たちが提灯を持ち寄り献灯したと言われ、後に大名行列あるいは獅子舞、神楽、棒術等の奉納演技が行われたと伝えられています。この「提灯の献灯」から、提灯をたくさん取り付けた屋台は「奉納」ではなく「奉燈」となります。
「赤い布かけさんまのひもの 平久里天神郷で釜こする」
この俚謡(りよう)は、昔から歌いつがれる平久里の祭りの情景を歌ったものとも言われています。
若い女性が髪に赤い手絡(てがら)をかけ、秋刀魚等の馳走をし、なお釜を洗って次の飯を炊くという、昔の山村の生活が目に浮かびます。
俚謡:地方で歌われる歌
手絡:日本髪で髷(まげ)の根元にかける飾りの布
担ぎ屋台
担ぎ屋台の起因は、江戸時代の終わり頃伊勢参りに行った米澤村(米澤地区)の人達が、京都に立寄り豪華な山車を見て帰り、青竹や和紙などで形を作り、燈心の火あかりで担ぎ廻ったのが始まりと言われています。その後は急速に大型化し、柱は細く屋根は紙障子になり、提灯も付けられ燃え立つような屋台となりました。
当時は道路が狭かったため、屋台が通れないところは平久里川を担いだので、水に映る夜景や屋台の明かりの美しさは一段と勝り、見ている人を魅了させました。笛太鼓もにぎやかに川を下ってくる屋台、川をさかのぼる屋台、いずれも御仮屋の入り口で列を正し、御旅所の芝生を踏んだと言われています。
現在は、旧平群小学校隣の平群グラウンドに屋台が集まります。
平群囃子
「平群の祭り」と言えば平群囃子です。
詳細は不明ですが、米澤地区が発祥の地と言われており、現在では房総地域のほとんどの祭礼で奏でられています。曲目は、さんぎり・馬鹿囃子・はや馬鹿・住吉・国調・祇園囃子・祇園くずし・須賀・亀山昇殿等数多くありますが、今では地区により多少変化が見られます。また山田区には、永久保存のために平群囃子保存会があります。
打上げ花火
平群の花火の起源は、200年ぐらい前と伝えられています。宝暦2年(1752)に亡くなった下総国相馬郡米之井村(現在の香取市米野井)に住んでいた新助が、回国巡礼の途中この地に立ち寄り、花火の製法から打上げまで伝授したのが始まりです。当時花火の打上げは下村・中村(現在の平久里下・平久里中)の競演となり、門外不出の秘伝として受け継がれました。そのため婿入りなどで他の村へ秘密が漏れないよう、火薬の調合等花火の製法は長男にしか教えられませんでした。
花火玉は重さが10kgほどあり、それを200m以上の高さまで打上げます。そのための打上げ筒は長さが約7m、末口0.5mで、これを作る原木は真っ直ぐな巨木で、松、樫、榧(かや)などが使われていました。残念ながら現在は花火の製造は中止しており、市販の業者花火が使われています。当時使用されていた花火の打上げ筒は、今も平群天神社の境内に置かれています。
平群の花火は、千葉県無形民俗文化財に指定されています。